経済・政治・国際

2009年3月 4日 (水)

殺しの狙いは口封じだ

 
 真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

       ☆       ☆       ☆

 元厚生次官夫妻殺害事件で最も気になるのは、犯人の小泉毅が、動機は保健所に愛犬を殺されたことだと言いながら、全ての殺害計画に次官夫人も加えていることである。

 彼が保健所の最高責任者と考えている厚生次官を、愛犬の仇として狙うのはまだ話が分かるが、そこに、お役所の仕事とはなんの関係もない夫人まで含めるのは、なんとも納得が行かない。

 愛犬『チロ』を殺されたことは、34年前の小学六年生だった犯人にとっては、実につらい出来事であったろうし、そのトラウマはいまだに消えることなく、心中に深く残っているということなのであろうが、その恨みが「当事者」ばかりか、その妻にまで及ぶというのは、どう考えても異常である。

 しかし、現実には、元厚生次官の山口剛彦氏が妻とともに殺害されたし、やはり元厚生次官の吉原健二氏の方は、本人が不在だったので、妻が瀕死の重傷を負わされた。

 犯人が持っていた殺人予定のリストでも、5人の元厚生次官および社会保険庁長官のほかに、5人のその妻が殺害計画のうちに入れられていた。

 殺されたペットの仇討ちのために、なぜ行政上の責任者ばかりでなく、通常は家庭の主婦であり母である、罪のない女性まで狙わねばならないのかという問題は、おそらく警察の取り調べの過程でも重要視され、犯人に対して何度か尋問されたことであろう。

 犯人の小泉も、この問題でツジツマを合わせるためにはどう答えるべきかかなり迷ったに違いない。逮捕後11日経過した12月3日になって、彼はようやく次のような供述をした。

 「1年前に元防衛事務次官の守屋武昌被告の汚職事件をめぐる報道を見て、官僚の妻もヒエラルキーの上にいる人間だと思った」
 その結果、「官僚の妻も悪だと感じたので、元次官らと妻の計10人を殺害することに決めた」

 これは、かなり考えた上での回答であろうが、明らかに多くのこじつけを含んでおり、誰が見ても嘘としか言えない答である。

 守屋夫人は、夫の汚職事件に大きく関与し、収賄容疑の共犯として逮捕されたが、起訴猶予ということで不起訴処分になっていた。

 これだけで、官僚の妻を悪だと結論するのは、部分を全体と見る誤りであって、この論理を妻殺しの理由に結びつけるのは、とんでもない見当違いだと言わねばならない。

 つまり、夫とともに妻を殺す理由には全くなっていないのだ。こんなことを言うくらいなら、もっと単純に、自分は愛犬殺しの元締めだった行政官を憎むが、同時にその妻も憎いと、犯罪者の偏執狂的な感情だけで説明すれば、むしろその方が自然な動機づけに見えたであろう。

 しかし、そういう個人的な恨みの感情を、一般的・全体的に拡大していくことには無理があるのだ。前回のブログでも述べたように、犯人は、自分の個人的で具体的な感情にすり替えて、一般的で抽象的な感情で説明しようとする傾向を見せている。

 自分の犬を殺した下手人を憎むという段階から、何十万匹の犬を殺す「官僚の悪」と「その妻の悪」を懲らすために、彼ら全員を殺して仇を討つという段階へと、いつの間にか論理を飛躍させているのである。

 なぜ、そんな方向へ行ってしまったのであろう。彼が挙げた動機づけ、「34年前、保健所に愛犬を殺された仇討ちである」だけでは説明がつかなくなってしまったからである。

 なぜ、厚生次官ばかりを狙ったのであろう。とりわけ在任期間の近接している吉原氏と山口氏を狙ったのであろう。なぜ、殺人予定のリストには、本人ばかりか妻の死まで計画されているのであろう。

 こういうことを説明するのに、愛犬の仇討ちだけでは説得できない論理の崩れが出てきたのである。しかし、犯人はあくまで、愛犬を殺されたことに対する復讐という動機づけで全てを説明しようとしたので、自供の筋道が狂い始めたと言えよう。

 吉原氏と山口氏は、厚生次官としての任期が近接しているというだけではなく、基礎年金制度の導入による年金大改革が行われた昭和60年、年金局長と年金課長のコンビを組んで、中心的な働きをした。

 この二人の家が連続して襲撃されたことについて、犯人は、二つの家が自分の住所に近かったことを理由に挙げているが、吉原・山口両氏の上記のような共通点を見ると、犯人の言う動機とはまた別の動機があったのではないかと思わせるところがある。

 犯人がTBSのホームページに送った犯行声明をもう一度見てみよう。
 「元厚生次官宅襲撃事件」
 「今回の決起は年金テロではない!」
 「34年前、保健所に家族(=愛犬チロ)を殺された仇討ちである」という文章が続いている。

 吉原氏と山口氏の経歴を見て、この文章を見ると、なぜ殊更に「年金テロ」であることを否定しているのかという思いに駆られる。なぜ、わざわざ「年金テロではない!」と言明することにこだわったのであろう。隠された別の動機というのは、むしろ「年金テロ」のことではないのかという疑念が湧いてくる。

 警視庁に出頭する前のアリバイ作りとして、犯人が必死に隠そうとしているのが実はこの動機であって、隠そう、隠そうとするあまり、かえって目立つところへ置いてしまうという逆効果を生んでしまったのではないだろうか。

 吉原氏と山口氏を殺害する計画にあたって、そこに必要条件として妻の死が加えられたということも、この別の動機と何か関係があるのかも知れない。

 吉原氏の方は、幸い家にいなくて難を逃れたが、夫人の方は、宅配業者を装って玄関に入ってきた犯人に段ボールの箱を押しつけられ、その瞬間には、刃物で胸を刺されていた。

 これは、容赦なく次官夫妻の生命を奪おうとする犯人の殺意の現れである。この場合、犯人にとっては殺害対象に順位はなく、夫も妻も同等の殺すべき存在である。ここには、相手に対する恨みの度合いなどという感情的なものは入ってこない。

 何か恨みがあって相手を殺す者は、通常そのことを相手に告げるはずである。「犬殺しめ!」とか何とか叫べば、それだけでも恨みの何分かは晴れるであろう。しかし、重傷を負った吉原夫人の報告では、犯人は終始無言であった。

 これは、山口氏とその夫人が刺殺された時も、現場の状況を見るかぎり同じような展開だったものと思われる。犯人は、山口氏とその夫人を、無言のまま何度も突き刺し、いずれも猶予なくこの世から消してしまわねばならない存在だとばかりに、短時間で殺害している。

 被害者二人は、自分たちが何のために殺されるのかも知らず、おそらく、何をされているのかも分からないままに死んでいったのであろう。

 犯人は、ここで、いったい相手の何を消そうとしたのであろう。生命であることは勿論だが、それと共に、相手の地位、身分、言葉、思考といった属性を消すことにも狙いがあったと言えよう。

 その属性のうちでも、夫婦ともにほとんど同等に備えているものは言葉である。言葉を消すこと、つまり「口封じ」が、夫と妻を同じ殺しのリストに載せた根本理由なのではないだろうか。

 犯人は、この二軒の家の玄関で刃物を振るったあと、血の付いた凶器を手にしたまま家の中を歩き回り、他に人間がいないか見て回った。いずれの家でも同じ行動を取った形跡があるそうだが、これは、家族であれ、誰であれ、すべてを消し去ろうとする、「口封じ」の殺しを目的とした犯行によく見られる特徴だと言える。

 しかし、いったい何の「口封じ」を狙ったのであろう。吉原氏と山口氏が局長・課長というコンビで、基礎年金制度の成立に携わったということを考えれば、この件について二人が共通に知っている何か秘密な事柄ということになるであろう。

 この秘密が外部に漏れることを怖れた犯人が、吉原氏と山口氏の「口封じ」をするために、連続して両氏を襲ったとは考えられないだろうか。

 この場合、両氏を消すだけでは不充分である。妻は夫の職業上の秘密を意外によく知っているものである。職場での裏事情を夫が妻に洩らしてしまうことは想像以上に多い。秘密保持ということを絶対条件とするならば、あるいはそれだからこそ、殺しのプログラムに妻も加えられたということが言える。

 山口夫妻の殺害と、吉原夫人への殺害未遂が連続して起こった後、犯人の小泉が早々と警視庁への出頭を用意していたらしいことは、前回のブログでも述べた。

 これは、今回の殺人事件が事実上これで終了したからではないだろうか。犯人も「やることは全てやった」「やり遂げた」などと言っており、自分が計画していた犯行の終わりを告げている。

 しかし、この場合、彼が唯一の動機だとしている「愛犬の仇討ち」と、その異常なまでの執念を考えれば、殺しはまだ完了していないと言うべきであろう。

 殺しが終わったと言えるのは、この事件が短期で終わるものとして設定され、かつ殺しの目的が「口封じ」の場合に限られる。

 犯人は、この犯行が短期で終わるものだということを、色々な面で示唆しており、意外に計画性のある犯行だということは随所に現れている。例えば、周囲が暗くなるような最適な襲撃時間を得るために、11月を選んだと言っているのが、その一つの例であろう。

 さらに、殺しの目的が「口封じ」の場合、二つの殺傷事件によって、強い「恐怖心」を人々に与えることができれば、他に秘密を知っている人がいたとしても、「口封じ」の効果が得られることは確実だからである。

 誰であれ、自分の知っている秘密を洩らして、自分ばかりか妻の身まで、時には子供たちや家族の身まで、死の危険に晒したいとは思わないであろう。安全に生きるためには、ただ沈黙を守っていれば良いのである。

 だが、ここまでくると、犯人の小泉毅が収監された後も、人々の「恐怖心」を維持できるような第三者の意志を想定しなければならなくなる。小泉は、この「意志」によって操られたプロの殺し屋にすぎないのであろうか。

       ☆       ☆       ☆

 このブログは、この段階で推論を停止することにする。あとは、この事件の捜査本部が下す専門的な判断にゆだねるほかは無いであろう。

 このブログはもともと、「裁判員になるための基礎訓練」として、一般市民である我々が、新聞やテレビ等の入手可能な資料を基に、どこまで犯罪の構造を究明できるかということを知るための試みであった。

 その試みとして立てた仮説がこんな所にまで来てしまったのは、実のところ、我ながら意外であった。いずれ発表されるであろう捜査本部の厳正な判断を見て、犯罪を解明することがどんなことかを学びたいと思う。

 なお、以上のような仮説を立てたついでに、ネット上で見た「元厚生次官ら連続殺傷事件についての憶測」と題された記事(平成20年11月21日)の一部を、ここに引用しておくことにしよう。
 (http://www.rondan.co.jp/html/mail/0811/081121-16.html)
 (http://www.asyura2.com/08/senkyo55/msg/1121.html)
 「被害者のうち官僚であった二人が事務次官をつとめていた期間と、小泉氏が厚生大臣であった時期が重なっている。
 また国会の会期延長に伴い、民主党の長妻議員がこの二人を証人喚問に呼ぶ可能性があったようである。
 これらから、事件の背景を洗い出すことができるのではないか」


 参考記事:MSN産経ニュース (http://sankei.jp.msn.com/)
 

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ペットの仇討ちという嘘

 
 真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

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 元厚生次官ばかりを狙った殺人事件の犯人が、その動機として挙げたのは、34年も前に保健所で殺された愛犬の仇討ちということだった。

 実のところ、この答には呆れるほかは無いのである。嘘もここまで来ると本当に見えるのか、テレビ解説者の中には、本気でこの動機を分析し、それにしても恨みが厚生次官に向けられたのは、犯人が役所の管轄系統を知らないからで、犬の殺処分には関係のない厚生次官を敵視するのはとんだ思い違いだ、などと解説する人がいた。

 しかし、犯人のこの動機づけが真っ赤な嘘だということは最初から自明なことで、問題は、なぜこんな嘘を彼が臆面もなく言ったのかということであろう。

 保健所は、飼い主の依頼がなければ、犬を引き取ったり殺したりはしない。もし、犯人の家の誰かが彼の愛犬を保健所に差し出したとしたら、それがペット殺しの張本人だということになるであろう。

 それに、保健所にすぐに駆けつけたり連絡を取ったりして、飼い主本人の意思を伝えれば、保健所は犬を返してくれるはずだから、それをしなかった犯人自身の責任も問われるであろう。愛犬の死については、何よりも自らの怠慢が責められてよいのである。

 飼い主のいない野犬化した犬に対しては、野犬捕獲員と呼ばれる専門の係や業者がいて、時々首輪や鑑札のない犬を捕まえに町へもやって来る。飼い犬も野放し状態になっていると、この野犬狩りによって捕獲されてしまうこともあるが、その場合は、保健所や業者に申し出ることによって返してもらえる。

 結局、自分の犬が保健所に引き取られたり捕獲員に捕まって処分されたとしても、誰かを恨む筋合いではなく、悪いのは、それを役所に依頼した自分の近親者か、それを取り戻しに行こうとしなかった自分の怠慢かということになるであろう。

 保健所は、犬を処分する前にかなり長い期間を置くのが普通だから、取り戻そうと思えばいくらでも機会はあったはずである。

 保健所が関係しているとは思わなかった、それを知ったのはずっと後のことだという言い訳もできなくはないが、そうなると様々な可能性が考えられて、保健所の介在を断定することがかえって難しくなる。

 犬が勝手に家を離れたということも考えられるし、誰かが拾っていったとも考えられる。犬が飼い主のもとから逃げ出し、野犬化してしまったという例はよくあるし、誰かに連れて行かれたという話も時たま耳にする。

 とにかく、こういう状態で保健所に恨みを抱くというのは的はずれもいいところで、しかもその責任者を厚生次官と特定し、次官とその妻に殺意を抱くというのは、異常としか言えないであろう。

 小泉毅は、小学校六年の頃、拾ってきた野良犬を可愛がり、『チロ』と名付けて飼い犬にしていたが、父親がこの犬を保健所に持ち込み、殺処分を依頼してしまったという。

 恨むべきは父親のはずなのだが、小泉はその矛先を、保健所の元締めと思われる歴代の厚生次官に向け、34年もかけて殺しの計画を練ってきたという。

 彼は犯行の5日後、警視庁に出頭し、自分が殺人犯であると名乗り出たが、その数時間前から、殺しの動機づけに懸命になっていた。

 まず、山口県柳井市に住む父親に手紙を書き、「1974年4月5日(金)に、飼い犬の『チロ』が保健所に殺された。その仇を取った」ということを記し、投函した。

 それから、10年間音信不通でいた父親に電話をかけ、「手紙が届くから読んでくれ。あした着くはずだから」と言い、十数秒の短い通話を切っている。

 次ぎに彼がしたことは、TBSのホームページへの書き込みだった。

 「元厚生次官宅襲撃事件」という題で、最初の文章は、「今回の決起は年金テロではない!」という言葉で始まっていた。厚生次官を狙ったのは、彼らの年金行政に対する不満や恨みからではない。ただ「34年前、保健所に家族を殺された仇討ちである」と続ける。

 ここで「家族」と言っているのは、小学生のころ彼が飼っていた愛犬『チロ』にほかならない。彼がどんなにこの犬を愛し、家族同然に思っていたかを示す言葉であり、この犬が殺された恨みだけで厚生次官とその妻を狙ったとしても別に不自然ではないと思わせるような、実に巧妙なレトリックだと言える。

 このメッセージをTBSに送ったのは、彼が警視庁に出頭する2時間前である。そして、それに先立つ2時間前には、父親に手紙を送り、その確認のために、10年ぶりの電話をかけている。

 こうして、彼は、警視庁に出頭する前の4時間のあいだに慌ただしく殺害理由の形を整え、子供のころ保健所に愛犬を殺されたという事実の証人を用意した上で、事件の証拠品一式を軽自動車に乗せて警視庁へ向かった。

 なぜこんなことをしたのであろう? 彼は、「昔、保健所にペットを殺され腹が立った」ことが殺人の直接的な原因だとする供述を繰り返しており、この主張をいまだに取り下げようとはしない。

 出頭前に彼が行ったことは、この主張を貫くための準備工作であったのだろうか。とすれば、34年前の愛犬の死を原因とする、常識的に見れば荒唐無稽とも言える動機づけの裏側に、真の動機が隠されているのではないか、と疑ってみる必要があるのではないだろうか。

 事件後5日目に早々と警察に現れたということも、真の動機を隠そうとする戦略だと言えないわけではない。彼は、犯行から2日目の11月19日には、すでに警視庁へ出頭するためのレンタカーを予約している。だから、警察への出頭は、犯行当初から計画に組み込まれていたとも言えるのである。

 すでに発表した「この殺人はプロの仕業だ」というブログでは、この事件が、犯罪の手口や殺人のテクニックに習熟したプロの殺し屋による以外には考えられないということを述べた。プロならば、いかに犯罪の痕跡をくらますか、いつ自首や出頭をするか、証拠品はどうするか、どのような動機づけにするかなどということは、全て計算済みであろう。

 今回の事件は、埼玉と東京で起こったあの二つの殺傷行為ですでに目的を達していたのかも知れない。この仮定は、後で述べるように、かなり信憑性の高いものなのである。隠された真の動機にとっては、あれだけで充分であり、犯人に残された任務は、それを個人的な怨念による単独犯の行為と見せることにあったとも言える。

 しかし、その個人的な怨念がなぜ厚生次官にばかり向けられたのかという疑問は最初からあった。犯人の殺しのリストには、5人の元厚生次官および社会保険庁長官と、その妻たちが挙げられていた。このように厚生省の幹部経験者ばかりを目標にした理由を、犯人は次のように説明した。

 「10代の頃から厚生大臣を殺そうと思っていた。しかし、大学で勉強し、悪いのは政治家ではなく国を動かしている官僚だと分かったので、大人になったら仇を討とうと思っていた」

 これが、ペット殺しの最高責任者(?)である厚生大臣から厚生官僚を狙うことに目標を切り替えた理由だと言うのだが、「大学で勉強」したので「大人になったら」というつなぎ方がそもそも不自然だし、これもどうやら嘘くさいという感じは拭いきれない。

 彼は、佐賀大理工学部の電子工学科に入学したが、二年通学したあと留年し、六年後には退学している。その間にいったいどこで、「悪いのは官僚」だとか「実際に権力を握っているのは官僚」などという知識を得たのであろう。

 何かこの種の授業があるとしたら、一般教養科目ということになるであろうが、大学教育の初期の段階で、国家において官僚が悪の根源であることを教えるような、そんな過激な科目があるなどとは思えない。

 「愛犬を保健所に殺された恨み」を晴らすと言いながら、その対象が厚生官僚にのみ集中していることの矛盾を、「官僚の悪」という言葉で合理化しようとした試みにすぎないと言える。

 その段階で、彼の個人的な恨みが、官僚全体の悪という抽象的な恨みの対象にすり替えられてしまったのも奇妙な話である。

 殺意を抱くほどの強烈な恨みの感情、復讐の感情は、普通は個人的で具体的なものに向けられるはずだ。まずは、保健所へ犬を連れて行って、殺処分を頼んでしまった父。次は、それを引き受け、実際に薬物か何かを使って犬を殺してしまった役人たち。

 ところが、恨みはそんな身近なところには留まらず、一気にその最終的な責任者と彼が思い込んでしまった「厚生次官」の方へ飛んでしまったのである。

 その理由は、官僚たちが毎年50万匹もの犬を殺しているから許せない、ということだった。いつの間にか、自分の愛犬の敵討ちが、全国の犬たちに代わっての復讐劇ということなってしまった。

 TBSのホームページに書き込まれた文章の中にも、「やつらは今も毎年、毎年、何の罪も無い50万頭のペットを殺し続けている。無駄な殺生をすれば、それは自分に返ってくると思え!」などと記されている。

 こうなると、殺処分になった犬たちに代わって、歴代の「厚生次官」全員を殺さなければならないという論理になってくるであろう。今や、個人的な恨みの範囲を超えて、犯人自身の考える抽象的な「社会正義」の実現が問題だということになる。

 犯人の殺しのリストには、5人の元厚生次官や社会保険庁長官の名が記されており、最終的には歴代の厚生次官や幹部職全員が狙われていると思わせるようなふしがある。

 犯人が警視庁へ運んできた段ボール箱の一つには、元社会保険庁長官の名前と住所の書かれた配達伝票が貼られており、この長官が「第3の標的」になっていることを匂わせていた。犯人もこのことを認めており、「この元長官宅も下見した」と供述したそうだ。

 しかし、すでに述べたように、犯人の目的は二つの事件ですでに達成されており、殺害行為は完了したと言えなくもないのである。このことについては、次回のブログで詳しく述べることにしよう。

 元社会保険庁長官が狙われたということも、単なる愛犬の敵討ちということからはややズレた対象であり、むしろ犯人が否定している「年金テロ」を思わせる相手なのだが、このことについても後で触れることにしたい。

 結局、犯人が持っていたのは「がせ」リストであり、個人的な恨みが、個別的なものから全体的なものへと広がっていく、いわば「無差別的」な様相を見せるように仕組まれたものだったのかも知れない。厚生次官なら誰でもよいという殺しの衝動を見せるためにである。

 というのも、次のような疑問にぶつかるからである。数ある元厚生次官の中から、なぜ昭和63年から平成2年までの吉原健二氏と平成8年から11年までの山口剛彦氏が最初に選ばれたのであろう、と。

 犯人が単純に自分の愛犬の仇討ちだと言うのなら、その相手はどの厚生次官でもよかったはずだし、もう少し個人的に恨みの対象を絞るなら、その犬が殺された時期に厚生次官の職にあった人物が真っ先に狙われてもよかったからである。

 ところが、犯人は、山口氏とその妻を殺し、吉原氏の妻に瀕死の重傷を負わせたあと、5日後にはあっさり警視庁に出頭し、自ら犯人であると名乗り出ている。

 これはどういうことであろう。これで気が済んだというのであろうか。犯人自身は、「警備が厳しくなったので逃げ切れないと思った」「警視庁に出頭すれば事件を処理してくれると思った」などと供述しているそうだが、事件後犯人が置かれた状況をみれば、「逃げ切れない」と考えるのは早計であろう。

 殺人を誰かに急かされてでもいないかぎり、世間のほとぼりが冷めるのを待てば、再び愛犬の復讐劇を開始するのも不可能ではない。34年も待ち、じっくり計画を練った殺人者にしては、いかにも引き際があっさりしていると言えよう。

 犯人は、それどころか、「もう人生に未練がなくなった。恨みを晴らし、やり遂げた」「やることは全てやった」などと言ってるそうだから、子供の頃から執念深く心に抱いていた「愛犬の仇討ち」というにしては、意外にたわいない幕引きだったということになる。

 それでも、彼は知っているはずである。これだけの罪を犯せば充分死に値するということを。「もう人生に未練はない」という彼の言葉は、いずれ死刑を宣告されるであろうことを予想し、自分自身の死を覚悟した上での言葉なのであろうか。

 彼は、愛犬一匹の仇討ちをすれば、自分はもういつ死んでもかまわないと思ったのであろうか。愛犬のために死刑になるのは本望だ。そのためなら、厚生次官とその妻であろうが、たとえ大臣であろうが、誰でも殺してやろう、と。

 もしそうだとすれば、これは日本の仇討ち史上、類の無いバカげた事件だということになるであろう。もともとは野良犬一匹の仇を討つために、何人もの人を殺し、自分も死刑になるのを辞さないというのであるから。

 しかし、そんなことではあるまい。犯人がわざわざ警視庁へ赴いたのは、こんなことを言うためだったのだろうか。
 ─私は、34年前に保健所に殺された愛犬の恨みを晴らすために、元厚生次官とその妻を殺しました。また、もう一人の元厚生次官の妻に重傷を負わせました。私はこれですっかり満足しています。もう人生に未練はありません。私をどうぞ死刑にしてください。

 結論として、私は、犯人が行った殺人の動機づけは真っ赤な嘘であり、その背後には何か真の動機が隠されていると思う。

 だが、選りに選ってなぜこんな嘘をついたのであろう。その理由の一つは、おそらく、精神障害や錯乱状態を想像させ、法的な罪を逃れる方向へ持っていこうとしたのではないだろうか。

 早々と警視庁に出頭した理由もそこにあったのではないかと思われる。しかし、彼がその嘘を正当化し、根拠づけようとして付け加えたその他の嘘、「嘘の嘘」を見ると、正常な頭でなければとうてい考えられないような、筋の通った「嘘」を発見するのである。

 もう一つの理由は、この嘘が、真の動機を隠すのにうってつけだったからだと思う。このことについては、次回に述べることにしよう。

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2009年1月17日 (土)

これは無差別殺人ではない


 真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

       ☆       ☆       ☆

 元厚生次官夫妻殺害事件のあと、この事件の詳細を知りたいと思い、私はNHKや民放の報道番組にチャンネルを回して、情報を探し求めた。

 確率は低いにしても、裁判員として将来この事件を担当することにならないとは限らない。それに対処するには、まずは事件直後のテレビや新聞の情報をよく把握しておく必要があると思ったのである。

 ところが、最初から唖然とさせられる言葉を聞かされることになった。テレビに出ていた解説者の何人かが、この事件を「無差別殺人」だと言ったのである。

 或る女性作家は、「一種の無差別殺人」という言い方をし、「一種の」という限定表現を加えていたが、この事件を「無差別殺人」と見ていることに変わりはなかった。

 こういうことを平然と言ってのける解説者には、法律の知識どころか、日本語の常識さえ欠けているのではないかと思われたのである。

 無差別に誰かに危害を加えるということは、相手が男であれ女であれ、老人であれ若者であれ問題にしない、つまり性別・年齢・職業・身分・人種・外観、等々に関わりなく、「通り魔」的に他人に襲いかかることを意味する。

 秋葉原の無差別殺人事件がまさにそうだった。そう言えば、このように、元厚生次官夫妻に対する事件を「無差別殺人」だと断じた解説者たちは、秋葉原の事件を引き合いに出し、それと同じ視点で、最近の世相や犯罪を論じる人たちが多かったように思う。

 だが、この二つの事件はまったく性質の異なるものだと言わねばならない。前回書いたブログ「この殺人はプロの仕業だ」でも述べたように、元厚生次官夫妻殺害事件は、犯人が宅配便を装ったり、特別な時間帯を選んだりして、緻密な計画のもとに行動していることは確かだし、手慣れた殺しのテクニックを用いて確実に相手を倒している。

 その相手というのは、元厚生次官とその妻であり、殺人の対象は最初からはっきり限定されていた。決して無差別な、行き当たりばったりの犯行とは言えないのである。

 犯人を名乗る男、小泉毅が警視庁に出頭し、埼玉と東京での事件が同一犯によるものと推定され、特に、この男が、5人の元厚生次官とその妻の殺害を計画していたことが明らかとなった今、もはやこの事件を「無差別殺人」などと呼ぶ人はいないであろう。

 しかし、事件の直後には、このように呼んだ人がいたことは確かだし、彼らの言葉によって事件の第一印象を受け取った人々にとっては、かなり影響力のある発言として残ることも考えられる。

 将来この事件の裁判員になる人が、テレビや新聞から受け取った最初の印象に囚われていると、この事件に対する正しい評価もできないままに、裁判に臨まねばならない。

 事件報道に加わっていた或る論者が、この事件は「単独犯によるものだと思う」と言っていたが、この発言も同じように、先走った推論だと言わざるをえない。

 犯人に、プロ級の殺しのテクニックが認められるならば、当然、この人間を雇用した背後の動きを疑ってみる必要があり、簡単に「単独犯」だと言ってのけるのは、時期尚早であろう。

 最近、警察は「単独犯」という線でこの事件を扱っているという報道を目にしたが、これは何を根拠にしての決定なのであろう。

 国民全員裁判官という時代を迎えるにあたって、各メディアはもう少し慎重になるべきだと思うのである。何しろ、裁判員になるための基礎訓練の場を提供するのはメディアであり、これからは、いわば教育機関に近い役目を負うのであるから。
 
 法律はおろか日本語の意味さえ分からない解説者に勝手なことを喋らせて臆断を振りまくような番組から脱して、もう少し事実の報道に徹するべきなのではないだろうか。

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2009年1月12日 (月)

この殺人はプロの仕業だ

 真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

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 埼玉に住む元厚生次官が、妻とともに自宅の玄関で刺し殺された。翌日、これも元厚生次官の東京中野の家が襲われ、妻が玄関で刺されたが、たまたま留守だった元次官は難を逃れた。

 妻は一命を取り留め、この二番目の殺人は未遂に終わったが、宅配便を装って玄関に入り込み、応対に現れた者をただちに長刃のナイフで数回刺した手口といい、狙いがいずれも元厚生次官だったことといい、同一犯人による連続犯行に違いないと思わせた。

 それと同時に、この事件が、殺しに慣れたプロの仕業であることは明らかだった。始めから終わりまで、シロウトの仕事とはとうてい思えない、実に冷静沈着な行動に終始しているからだ。

 殺しのプロは、人間の身体のどの部分を何回刺せば、相手に致命傷を負わせるかということをよく知っており、的確に仕事の順序を判断すると言われている。

 殺しを初めて経験する者が、度を失い、時には狂乱状態になって、いつまでもナイフを振るったり、無駄な傷を負わせたりするのに反して、殺しに慣れた者は、相手を沈黙させ、死に至らせる深傷を与えた後は、落ち着いて次の行動に移るであろう。

 埼玉での犯行が、犯人のこのような冷静沈着さを想像させるのは、玄関での異変に気がついて現れたと思われる元次官が、大声を上げたにもかかわらず、数秒後にはこれを黙らせる正確な突きを入れ、何回かの刺し傷で倒していることが挙げられる。

 そのあと、この犯人は、残っている人間を捜して、家の中を歩き回ったらしいことが、足跡から推定されている。実に冷静に犯行の完成と後始末を考えているのであるが、このような心境になれるのは、殺しの暴力を自分自身の感情から切り離した、或る任務の遂行と思わないかぎり不可能であろう。

 東京での犯行も、応対に現れた元次官の妻を何回か刺したあと、犯人は、倒れている女性を離れて、元次官の探索に向かっている。

 ただ、犯人の誤算は、女性に致命傷を与えたと判断したことなのであろう。玄関の外へ這い出た彼女にとどめを刺すことができず、不在だった元次官も殺すことができなかった犯人にとって、この東京での犯行は明らかに失敗だった。

 しかし、それでも、車の置き場所まで歩いて戻ったらしいことには、この犯人の、仕事を熟知した落ち着きと冷静さが読み取れるのである。

 ダンボールの箱を持ち、宅配便を装った出で立ちながら、車を遠方に停めたのは、車での逃走に目印を残すような愚を避けたのであろう。

 こんなことは、プロでなくても考える単純なことかも知れないが、それも含めて、シロウトだったら見落としかねない逃走時の配慮が細かく成されている点にも、仕事に慣れた犯人の用意周到さが見て取れるのである。

 犯人を名乗る男が警視庁に出頭していらい明らかになったことのうちにも、この男が真犯人ならば、プロ級の経験を積んだ者でなければ考えられないような幾つかの特徴が含まれている。

 例えば、この男、小泉毅は、5人の元次官とその妻を殺すつもりで10本のナイフを用意していたそうだが、その中ですでに凶行に使われたものには、ナイフの柄に白い布が巻き付けられ、プラスティックの鍔がはめられていたそうだが、これなども、ナイフでの殺しを熟知した者でなければ、なかなか思いつかないことだ。

 10本のナイフを用意したということも、それに類する行為だ。通常は、1本のナイフがあれば、二、三人は殺戮できると思いがちだが、殺しの実際に慣れた者には、一人の刺殺に1本というのが、確実に目的を達するために準備すべき数なのであろう。

 犯行時には刃がこぼれたり、場合によっては折れたりと、予想外の支障が生じることもあるらしい。夫と妻を確実に殺すという目的のある時には、一人に対して1本のナイフを用意しなければならない。これはまさに、犯行の完全性を考える殺し屋の発想ではないだろうか。

 この殺人がプロの仕業であるなら、小泉毅はいつどこでそれを学び、修練を積んだのであろう。

 殺しのプロは、ナイフの刃を上向きにして突き刺すと言われている。犠牲者の遺体解剖の結果はどうだったのか、これも気になるところだ。

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はじめに

 真理は隠れている。探し出すのはあなた自身だ。 小野しまと

       ☆       ☆       ☆

 いよいよ国民全員裁判官という時代がやって来る。私もいずれ「裁く者」として法廷に呼び出されるだろう。それまでは、まだお役目の回ってこない裁判員として、つまり非番の裁判員として待機しているわけだ。

 だが、面白い時代になったものだ。私にもともと盗癖があったり、他人の命を狙いかねない凶暴性があったとしたら、どうなるのだろう。犯罪者が犯罪者を裁くという奇妙な事態にもなりかねない。日本の民主主義もずいぶん進化したものだ。

 この制度ができたおかげで、大きく変わったことが一つある。良いにつけ悪いにつけ犯罪が身近になったことだ。今までのように、社会のどこかで専門家がうまく始末してくれるだろうと、遠くを吹く風のように思っているわけにはいかなくなってしまった。犯罪事件が起きるたびに、今までとは違った「裁く者」の目で、いろいろと推理し判断している自分を発見するのだ。

 今までも、刑事物や裁判物のドラマを見ている時に、それに近い気持ちになったことはあるが、それとはまるっきり真剣度が違うのだ。いい加減な推理や判断をしてはならないという気持ちがある。

 何しろ、他人の死を決定する権利まで手に入れたのだ。法に従えば、人を殺すことだってできる。しかも、法について全く無知の状態にあってもかまわないのだ。裁判員の資格については何も問題にされないのだから、事は重大だ。かえって責任を感じてしまう。

 そこで私は、何か大きな犯罪事件が起きるたびに、自分の裁判員の順番が回ってきたつもりになって、その事件の詳細を考えてみることにした。

 今までだったら、何にも知らないシロウトが、余計な口を挟んだり、勝手な推理をしたり、バカげた判断を下したりしたら、はた迷惑だと言って非難されたことだろう。

 だが、今や、それが通る時代になったのだ。自分の担当する事件が回ってくるまで、機会を見つけては知性や判断力を磨き、自己を高め、他人を裁くための能力を身に着けることは、国民全員裁判官時代の義務でもあると言える。

 自分が実際に法廷に呼び出された時の心構えとして、準備として、練習として、いわば「基礎訓練」として、私は、主として殺人事件を対象に、自分なりの感想や意見や推理を書いてみることにした。

 幸い、今やブログを交換して、自分の誤った考えや片寄った意見、至らない判断はどんどん直してもらえる時代だ。私の気がつかないでいた事実や知識についてもコメントを入れてもらえるだろうし、知識人のご批判もいただけるだろう。これこそまさに裁判員になるための立派な基礎訓練なのだ。

 しかも、主題になっているのは実際に起こった現実の事件なのだから、最近盛んに行われている模擬裁判などで架空の事件のことをいろいろ考えるよりも、はるかに現実味があり、実践的な練習になることは間違いない。

 私が最初に取り上げたいと思うのは、例の秋葉原無差別殺人事件も大いに関心をそそるのだが、何といっても最も新しく、しかも真相の捉えにくい、埼玉・東京で起こった元厚生次官夫妻殺害事件だ。おそらく恰好の問題を提供してくれるだろう。

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